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2003年 第4号

= 水墨画の魅力を掘り起こす =
孫 子青   

◆平安時代に「唐の仏画」を吸収した日本は、次の時代に何を学んだか。
 前回は日本美術史における、平安時代の絵画と「唐の絵画」との関係を述べました。唐絵画から多大な影響をうけた平安絵画は後期になると、その影響から徐々に脱し、日本的な絵画を志向します。いわゆる大和絵の誕生です。これが平安期における中国絵画からの大規模摂取による大きな成果です。今回は第二の大規模摂取と呼ばれる―室町時代における「宋元の絵画」からの摂取と日本の水墨画の誕生についてお話しましょう。

◆室町時代、中国から日本が吸収した絵画は「宗元の水墨画」。
 二回目の大規模摂取は、一般には室町時代とされていますが、鎌倉時代の中頃には
その兆候が見受けられるようになります。ここでちょっぴり、それまでの絵画史を振り返っておきましょう。平安期の前後は中国から主に仏画を吸収しましたが、仏画は技法においては線を中心としたものが大半で、丁寧に施された鮮やかな色彩が特徴です。また、構図や図柄には固定的なものが多く、自由な表現はまだまだ前面に出ていません。  
 こうした状況は室町時代になると、伝統絵画の概念を覆す中国渡来の水墨画の登場により、大きな変化を見せます。当時、水墨画はまさしく“最先端”の絵画で、人々は水と墨による無限の表現性・発展性をそこに見出し、驚嘆しました。こうして移入された水墨画は日本の近世絵画の幕開けを告げることになります。

◆中国絵画の頂点とされている宋元絵画とは。
 室町絵画の最大な特徴は、一言でいえば、宋元絵画の移入によってもたらされた、新しい絵画様式、即ち水墨画の興起です。その影響は近世絵画の端緒を開いたといわれるほど大規模なものでした。では、日本絵画に革新した「宋元絵画」とは、一体どんなものなのでしょうか。「宋元」というのは中国の北宋(960年〜1127年)、南宋(1127年〜1279年)、そして元(1279年〜1368年)の三つの時代の総称です。始まりは藤原時代、終わりは鎌倉時代の後期に当たります。「宋元絵画」といえば、今日でも、日本の画家はもとより、絵画ファンにとっても一度は耳にした言葉ではないでしょうか。宗元時代の絵画は、中国数千年の絵画史の中でも最高峰に達した絵画で、晋、唐のそれを遙かに凌ぐものだと評価されています。では、その功績について説明しましょう。

◆写実画(院体)と水墨画、二大潮流を生んだ宗元の画壇。
 一般に宋元絵画の功績は二つあると言われていますが、第一は徹底した写実主義を完成したことです。宋の皇帝は“画院”という機構を設立し、宮廷画家を大勢育てました。数千年に及ぶ中国絵画史において、国を挙げて絵画を奨励した時代は他に類を見ません。対象物を徹底的に観察し、緻密に描写する画風は宋時代の主流で、「院体」(図1)と呼ばれました。その様式は近代の日本画壇にも受け継がれ、横山大観、速水御舟、小林古径など、近世の日本画壇を代表する画家たちに大きな影響を与えました。 
 宋元絵画の二つ目の功績、それは水墨画の完成といわれています。水と墨、白と黒の濃淡を駆使して豪快に描く画風は、写実絵画の対極を為す絵画として登場しました。だからといって、水墨画は決して偶発的に発生したものではありません。写実主義が全盛を極めていた時代にあって、外形の写実を過分に追求する技法や極彩色を飽き足らなく思っていた一部の文化人や画家たちは、絵画の精神性と発展性を求め、水墨という新しい絵画様式を創造しました。それは「文人画」(図2)と呼ばれ、室町時代の日本にも移入されることになります。水墨画は元の時代を迎えると、中国絵画の主流になり、全盛期を謳歌します。このように中国絵画に見る外形的表現から内面的表現への芸術理念の転換は、写実絵画が最終的に抽象絵画へ発展した西洋海画の流れにも暗合するものではないかと、私は考えます。

図1 桃鳩図  徽宗 趙佶(北宋)
絵画に溺れ、国まで滅ぼした伝説的な皇帝です。皇帝でありながら、宋朝院体絵画の代表的な画家でもありました。「桃鳩図」は徽宗二十六歳の時の作とされ、後に日本に渡来し、国宝になりました。華麗で色彩効果にまさり、豊かなふくらみが感じられて、堂々たる安定感が表現されています。高い気品は帝王の絵画にふさわしいものです。


図2 枯木怪石図・蘇軾(北宋)

蘇軾、即ち蘇東坡は文学、書道の第一人で、書道の筆遣いを水墨画に取り入れた最初の人といわれ、画家としても有名な人でした。簡潔にして豪放なタッチで寂しい枯れ木と怪石を描いた、この作品は文人画の幕を開けた名品です。後に、このスタイルは日本に伝来し“侘び寂び”の美学の原点となました。

◆室町絵画の最大の特色は、水墨画の誕生である。
 室町時代、中国絵画から大規模な摂取を行った日本絵画ですが、対象は前述したように水墨画でした。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、禅宗の場合は修行の一環としても描かれました。鎌倉時代の中期、禅宗の移入に伴い、宋元の水墨画は日本へ渡来。やがて禅僧の余技として描かれるようになりました。描く対象は蘭、梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く、技法も拙稚でしたが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、中国絵画の模倣から日本独自の水墨画が生まれるようになります。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れます。

◆開祖・明兆から如拙、周文へ。日本の水墨の系譜。
 初期の画僧で有名なのが明兆(みんちょう)です、彼は元時代の宮廷画家・顔輝(がんき)の画風に学び、水墨画を専門にした最初の画僧といわれています(図3)。明兆につぐ画僧は如拙(じょせつ)です。彼により水墨の山水画は確立されましたが、それを受け継ぎ発展させたのが周文(しゅうぶん)です。周文は如拙に絵を学ぶ以外に、彫刻にも精を出し、後に幕府の御用絵師になりました(図4)。山水画の完成者といわれている如拙には、残念ながら、現存する確実な遺品は一点もありません。生没年月も不明で、謎の多い画家です。さて、周文の絵が一世を風靡するようになると、多くの後継者が出現しました。


図3 鉄拐図・明兆(室町時代)

明兆は東福寺で器物を整理する備品係でしたが、下位の僧にもかかわらず、画才を認められて専門の画僧になりました。本図は中国の仙人・鉄拐李を描いた明兆の代表作の一つで、その図柄と表現は元時代の顔輝にそっくりです。

図4 三益斎図・伝周文(室町時代)
本図は実際の書斎を写したものではなく、禅の精神世界をこの幽玄な山水を通して表現したものです。「三益」とは松、竹、梅のことで、山水画に出てくる書斎の周辺によく描かれます。また、図の真中に置かれた高い山の配置には北宋山水画の影響がうかがえます。

◆そして水墨の巨人・雪舟の登場。
 その中で最も偉大な功績を残した画家は、なんといっても雪舟です。彼は明時代の中国に渡り、大陸の自然風物に直接に触れ、画技を磨きました。帰国後、周文に師事し、宋元画を勉強しながら、自然に対する独自の観察眼を磨き、日本の風景を描きつづけました。師の周文と違い、彼には多数の名作が現存しており、中には「天橋立図」、「四季山水図長巻」、「秋冬山水図」(図5)など、人口に膾炙した国宝指定の作品があります。雪舟は山水や花鳥のみならず、人物画の他に、達磨や寿老人などの仏画もよくし、花鳥屏風にも作品を残すなど、縦横無尽の画才を発揮しました。雪舟の弟子で、一番、名を成したのは雪村です。彼は雪舟の画風を学んで個性的な世界を作り上げました。

図5 冬景図・雪舟(室町時代)
冬景図は幽深な冬の山水を描いた作品で、現在国宝に指定され、雪舟の代表作の一つとなっています。この他に姉妹作の秋景図があり、力強い筆致と安定した構図は両者に共通しています。

◆禅僧の余技を脱し、独自の世界を歩き出した日本の水墨画。
 このように、室町の水墨画は禅から生まれ、やがて禅宗を脱して独立した世界を持つようになります。禅僧の余技だったものから、専門の画僧の手に移り、如拙以降は幕府のお抱え絵師を兼ねるようになりました。後の狩野家になると、禅宗の雰囲気からは完全に離れ、いわゆるプロの画家としてその職を世襲し、近世絵画の出発点となります。

◆巨人・等伯を経て大雅・蕪村の南画へ。さらに応挙の四条派へ。
巨人・等伯を経て大雅・蕪村の南画へ。さらに応挙の四条派へ。
 桃山時代は障壁画の時代で、装飾性を持つ豪華な風格が尊ばれ、水墨画を得意とした画家・長谷川等伯(はせがわ とうはく)や海北友松(かいほう ゆうしょう)等が頭角を現します。さらに後期になると、俵屋宗達(たわらや そうたつ)が登場。華麗な作品に並び、豪快な水墨画を残しています。江戸時代を迎えると、水墨画を代表する画派は、なんといっても南画です。南画派は中国の文人画の精神を継承し、文人高士の間で行われていました。南画様式の完成者は大雅(たいが)と蕪村(ぶそん)の二人で、作品は温雅な情趣を最大の特徴としています。その画風は深い文学的な素養に支えられ、一時期、全国の文人の間で普及しましたが、明治に入ると形骸化し、深い精神性を失って、次第に衰退してしまいます。この南画路線に対して、円山四条派の円山応挙(まるやま おうきょ)は、徹底した写実を主張しましました。彼は水墨画の技法にも優れ、後にその門下から竹内栖鳳(たけうち せいほう)や川合玉堂(かわい ぎょくどう)などが出て、伝統の水墨と西洋の色彩を組み合わせた新しい画風を開拓。現代日本画の旗手となりました。


図6 松林図屏風・長谷川等伯(桃山時代)

等伯(1539-1610)は桃山時代水墨画の代表的な画家。国宝のこの屏風は、草稿とも
いわれますが,靄に包まれて見え隠れする松林のなにげない風情を,粗速の筆で
大胆に描いています。禅の境地とも,侘びの境地とも受けとれる閑静で奥深い表現
には、測り知れない画技が窺われます。彼が尊敬した南宋時代の画僧・牧谿の「自
然に忠実たらんとする態度」が,日本において反映された希有の例であり,近世水
墨画の最高傑作といわれています



図7 夜色楼台図・与謝蕪村(江戸時代)
俳人として名高い与謝蕪村(1716-83)は,池大雅とともに日本の南画を大成した画
家です。絵には特定の師を持ちませんでしたが,古画や画譜類を拠所に「明清画」
を学び,多彩な画風を採り入れて独自の画法を創り上げた人です。無限に連なる
山。ひっそりと雪に埋もれ息を潜めながら、所々に灯を置いた村落。それらを包み
込むように垂れ下がる漆黒の天蓋。「宿かさぬ燈影や雪の家つづき」。この夜色楼
台図は恐らく自からの体験を描き、詠んだ作品なのでしょう。




図8 倣王摩詰漁楽図・池大雅 (江戸時代)
王摩詰は、中国は唐の画家です。本図の主題は漁に興じる人々を描くことにありますが、その様子は山水の景観に溶けこんで、ほとんど目立たちません。近世南画の巨撃たる池大雅(1723-1776)の興味は、画面下方から蛇行しながら、上昇して行く自然景観の描写に注がれています。本図が観る人を驚かせるのは、純粋の水墨画でありながらも、豊饒な色彩を感じさせる点です。細やかな神経の張り巡らされた筆法の変化と墨色の濃淡が、そうした錯覚を生みだす大きな要因でしょう。


図9 雀図・円山応挙(江戸時代)

円山応挙(1733〜95)は狩野派を学び,宋元絵画の写生技法を研究して自己の画
風を確立しました。彼の写生技法をよく観察することができるのは,山水画より花鳥
画といわれています。中でも孔雀は応挙の得意とした題材で、本図に見る孔雀の姿
態は実に写実的かつ華麗に描かれ、驚嘆させられます。また、水墨で丁寧に描き、
その上に岩絵具を薄く彩色しただけで、豊かな発色が得られる応挙独特の画法は、
今日に至るまで日本画にも多大な影響を与えています。



◆大和絵との融合による、日本独自の水墨画の誕生。
 以上、室町時代に端を発し、今日まで滔滔と流れてきた水墨画の水脈を俯瞰すると、室町時代の明兆、周文、雪舟たちは日本に於ける水墨画の定着及び普及に尽力し、水墨画の源流となった画家でした。しかしながら、彼等の画風はあくまでも宋元絵画の影響下にあったと言わざるを得ません。桃山時代に入り和風文化が進むと、和の空間に合う絵画、障壁画などが要求されるようになります。こうした要求を満たす絵画となると、宋元風の水墨画だけでは物足りなくなり、大和絵と融合が進められるようになります。等伯以降の画家たちはそれに成功し、内容的にも力量的にも、ここではじめて日本独自の水墨画と呼べる様式が誕生することになります。

◆親子関係にありながら、異質な世界をめざした日中の水墨画。
 伝承関係から見ると、日中の水墨画はまるで親子みたいなものです。しかし、絵画様式は共有していても、表現しようとする世界はそれぞれに違います。スケールの雄大さ、重厚さ、端麗さを特色とする中国の水墨画に対し、日本の水墨画は淡雅さ、温潤さに豪快さを特徴としています。幽玄な禅の世界、侘び寂びという精神世界を主柱に据えながら、和風文化特有の装飾の美学も同時に追求する、これが日本の水墨画の芯であるといえます。“中国の水墨画は淡い墨色を使っても、表現する世界は濃い”。“日本の水墨画は濃い墨色を使っても、表現する世界は淡い”。日中の水墨画を概括するなら、この一言がもっとも相応しいと思います。

◆次回からは、水墨画家とその作品に焦点を当ててお話します。
 日本の水墨画は中国絵画から多大な恩恵を受けて誕生。以来、今日至るまで長い時をを旅してきました。この連載では日本の水墨画史を中国絵画に照らし合わせながら、簡単に辿ってみました。辿った流れはあくまでも大筋に過ぎず、それぞれの時代に水墨の大河は幾筋もの支流を飲み込みながら、相貌を変え流れてきました。流れの中には多くの画家が存在し、色々な足跡を残してきました。次回からは、個々の画家とその作品にスポットライトを当て紹介して行きます。引き続き、ご愛読をお願いします。


子青氏の作品が豊富に展示されているギャラリーです。


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